昭和42年9月11日 夜の御理解
どんなに、暴れ牛でも、しっかり、鼻ぐらを掴んでおけば大丈夫。どんなに、暴れ馬でも、馬の手綱がさばきよう一つ、手綱をしっかり持ってさえおきゃ大丈夫。そんなことを頂くんですよね。皆さん、どう言う事だと思われますか。ここで、その御理解を頂いていられる方は、分かろうと思うんですけれども、馬のお知らせというのは、卑しい心とか、汚い、または、汚い欲望とでも申しましょうかね。んー、でございます。どういう汚い心が、いわば、神様のお嫌いになるような汚い心が、むらむらと、心の中に起こってまいりましても、ね。その馬なお手綱を、しっかり握っておくという事は、どういう事であろうかと。どういう、んー、暴れ牛と言うても、鼻、鼻ぐらをしっかり掴んでおきゃ大丈夫と。牛のお知らせは、あー、先祖のめぐりと申します。例えばその、先祖のめぐりのために、様々な、難儀苦労がありましても、それは、暴れ牛のように、いー、難儀な問題でありましても、人間の手には、つけられないというようでありましても、いよいよ、その牛を本当に使う人が、まあ、ぐっと鼻ぐらを掴んだら、もうそれで、牛は動きが取れなくなるのです。それを怖がって、外したり、手綱を外したり、鼻ぐらを外したりするところに、えー、難儀な問題が、いよいよ難儀な問題として広がっていく訳でございます。
今日、私、あの、今日、ある方のお届けさせてもらいまして、お話を頂いておりますと、もうほんとに、もう身も世もないといったような難儀、いー、その方の場合は、形の上には、非常に恵まれておられますけれども、いわゆる、心の悩みなんですよ。ほんとに話を聞けば聞くほど、はあー、ほんとに人間の悩みとか、苦しみとかっというのは、こう言う事のために、えー、自殺行為なんかをする人があるけれどもですね。それはもう、私共から見りゃ、贅沢だというごとあるけれども、本当に苦しい、泣きたいほど苦しいと、もう、死ぬほどにという時には、もう、どんな難儀でも苦しみでも同じだという事。ね。それはあの、えー、お金がない。わずか五万円ばかりの金がないために、そのために、そのあまりに責めれれるのが辛さに、一家心中したというようなことがある。ね。今頃の金で、五万円ぐらいのことで一家何人もの命を絶たんでも良か労と思うごたるけれども、その人にとっては、そのように苦しいのです。医者から、もう、あんたの病気は駄目だと見離されてから、世をはかなんで自殺したという人もある。もう、死ぬほどにという。かというと、私共から考えると、もう、馬鹿のような話だけれども、さあ、好きな人が出来たばっかりに、その人と、心中したりするといったようなことがございます。だからもう、死ぬほどにとか、泣きたい程とか、もう、か、という時には同じなんですね。もうその苦しみと言う事は。私、そういうような、今日、本当に、身も世もないといったような悩みのことのお取次ぎさせて頂いて、今晩、その事をお願いさせて頂きよりましたらですね。神様から、最高の修行といただきました。その方も、大体、信心があるとですよ。ほう、ほんならあの人達は、最高の修行をしござると、私は思うたんですよ。ね。ご理解にも、えー、此の方の行は、火や水の行ではない、心の行ぞと仰る。ね。または、和行よりは、心行しよと仰る。形の行よりも心の行をせよと仰る。もう、ほんとに、死ぬ程に苦しい、いわば、行そしておるわけです。だから、死ぬほどのい苦しい、苦しいと言うとったら、やはり苦しいのです。やっぱ、難儀なんです。ね。苦しゅうございますと。けれども、このような心の修行と。心を鍛えて下さっておる、こういうほどの修行をさせて頂いておると思うたら有難い。いやー、この修行の向こうには、どういうおかげを受けられるだろうかという。苦しいけれども、先が、ほのぼのとしてくるわけです。ね。
いつか、秋永先生が、もうある、非常にそれこそ、難儀な問題で、もう、本当に心の底から、もう本当に、人間関係でしたから、もう、畜生と言わねばおられないほどに、苦しいことなんです。そらもう、便所にいっとる暇でも、そうだったちいうんです。ね。もうほんとに、脇から見たら、考えたら、そうもあろう、さもあろうというような事でしたけれども、けれども、そういう事の、苦しい事だけれども、ね。しかし、この修行がと言うてたら、先に、どげなおかげが待っておるだろうかと思うと、そこに、一筋の光明を見出すようなものを感じたと言うております。ね。なるほど、そういう自分で求めてする修行じゃない。もう、自ずと、一つの問題が起きて、その事によって、もう夜にも昼も眠られんような、例えば、心配があるとするならですね。その心配が、修行に切り替えられた時にです。もうそれは、心行としては、最高の心行だという事になるわけなんです。ね。けれども、それが、悩みであり、苦しいというだけであったら、それはもう修行じゃない。最高の心行さして頂いておるのにもかかわらず、自分が、ただ、苦しい、苦しいと言うて、神様にお礼を申し上げる心が湧かないとするならばです。それは、やはり、難儀なのです。ね。なら、それではおかげは受けられんのである。ね。四神様の御教えの中に、氏子が心配すると、神は心配せんですむと仰る。ね。平生、心配する心で信心をせよと。心配をしておったんでは、おかげにならんから、その心配する心、百の思いで心配をしておるのなら、百の力で神様に打ち向かえという事なのです。ね。しかも、その心配がです。心配をすると神様は心配せんですむと仰ることはですね。神様とても、氏子が心配しておったらですね、おかげにしてやり様が無いのですよ。このような心配を持っておりますけれども、お取次ぎを頂いたら、神様にお任せする心が出来ましたら、心が何とはなしに安らぎました。だけではない、よくよく話を頂かせていただくとです。これが心行として神様が受けて下さるならば、この苦しい心が、この問題を、この事をです。どうぞ、心行として受けていただくために、詫びたり、願ったりが、そこに必要であり、また、それが苦しいならば、その苦しい、それが消えるように、私、その方に今日、申しました。食欲のほうはどうですか。まあ、そんな心配の時ですから、あんー、がぶがぶちは、いけまいけれども、ね。まあ、いただきますと。そんなら、一時ばっかりは、断食しなさったらどうですかち、私が申しました。ね。人間とは、この、信心の、おかげの頂ける一つの、おー、条件とでも申しましょうか。どういうような場合でもです。真に有難いというものが生まれてくると、表現は違いましてもです。その、有難いというところから、ささやきが始まるものですよ。ですからもう、三日なら三日、一週間なら一週間と、断食してみて、もう、本当に食物というものが、こんなにも、有難いのであると言う事はです、これは、自分が言うてはならんような苦しみは、こら、食べん苦しみのほうが、まあだ、つらかといったような事が分かって来たら、こっちの苦労がちった楽になる。ね。そんな事が出来はせんけれども、言うなら、そのくらいな工夫ぐらいは、しなければ駄目なんです。ただ、腕こまねいてみて、どうしてこんなに苦しいだろうかと言うておるだけでは、つまらん。ね。そしてです、はー、なるほど、一碗の、ご飯というものがです、一碗のそのお菜というものがです。ね。いわゆる一膳一碗の中にです。もう、本当に、このような有難いものを感じたことはなかったと言うような、おかげを頂いて、例えば、食物に対しての有難さが、本当に分かったら、有難いなあと思うたら、そのことで、この問題が解決してくる糸口ができてくる。私が申しますように、ね。難儀な問題、様々な、身体が悪いときには、身体に対する御理解。金銭のお繰り合わせが頂けんという時には、金銭のお繰り合わせを頂けれる話をしなければ、というのじゃないと私は思うておる。問題は、私が今、現在、有難いと思うておることで、病人も助かりゃ、ね。どんな難儀な問題でも助かると、私は思っておる。真に、有難いというのは、同じなんです。真に有難いというものを伝えてこそ、初めておかげになるのである。それはあるけれど、それを受け取ってくれる。キャッチしてくれたときに、その人のまた、おかげになるのである。私は、今日、初めてそんな御理解いただきましてですね。ははー、誰だって、心配のないことはないのだけれども、その心配がです、その不安がです、その苦しみがです、ね。いわば、心の、いわば、修行をですね、さしていただいておる。しかもです、その方が、まあほんとに、死ぬほどに心配をしておる、苦しんでおるという事がです。もう、最高の修行であるということが分かります。心の切り替えが出来よるときに、はー、神様は、こういう最高の修行をさして下さっておる。この、修行の暁には、ね。どういうおかげと、力が受けられるだろうかと思うただけでも、心の中に光がさしてくる。ね。和行よりは心行せよと仰るから、ほんなら、その心行だけでよいかというのじゃない。その心行を助けるために、本気の和行が出来なければならない。お参りの行も有難いのだと。それこそ、火や水の行もまた有難いだろうと。それで、今申しますように、断食の行などでも、ね。それをカバーする。心の心行、心の苦しみを心行に代えていくだけの働きというものをするために、また、和行も必要であるということを感じますけれどもです。和行の上に心行せよと仰るのは、心行とは自分が求めてする事もございましょう。なら、心の行ですから、それは和行と同じこと。ね。まとめてする場合もありゃ、神様がさして下さる形の行の場合もあるようなもの。けれどもその、和行が、ね。心行が、心行に、例えばその、心行が心行にならずに、心配になり、苦しみになったときにはです。これだけの、最高の修行させて頂いておるのであるから、本当に、これを修行にしなければ、いわば、馬鹿らしか。相すまん。そこで、それをカバーするために、また、和行、形の行も、いわゆる火や水の行でも、させて貰う事は、大変、その行を支えることになる。ね。心行が出来易いために、私は、和行はあるというふうにも思う。今日は、私は、お互いがです。ね。様々な場合に、悩んだり、苦しんだり、心配したり、不安をしたり、不安があったり、心の上に感じるところの、いわば、行、場合はです、それを心行として、神様が受けて下さるようなおかげを頂かせて貰うたらです。ね。どんなに死ぬほどの、例えば、心の心配がありましても、それは、最高の心行として神様が受けて下さる。信心に、おかげが付き物じゃない。信心には、修行が付きものぞ。その修行におかげが付くのであり、御徳が伴うてくるのであるから、そこんところを分らせて貰うとです、今まで、苦しい、苦しいと思うておったことは、本当に、それとは反対に、このような素晴らしい、心行を誰なら出来るか。神様は私に、その心行を求めておられるのだと分かったら、その求めに応ずる、応えることや、体制さえ出来れば、それはそのまま、最高の心行という事になるでしょう。どうぞ。